昭和44年07月03日 朝の御理解
御理解 第84節
「おごりがましいことをすな。ものは、細うても長ごう続かねば繁盛ではないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。」
私は今朝からお夢を頂いて、そのお夢の事を御祈念の間色々考えさせて貰うて、有り難い事だとこう思うのですけれども、若先生が結婚式があっておる所であった。私共夫婦、両親、それに若先生達、そこはその場で消えてから、御本部とも親教会ともつかんのですけれども、三組揃うてお礼参拝をするというので、お供え物を整えようというあのうお夢であった。人間と身代と達者と揃うて三代続いたら、神の気感に適うた氏子じゃと仰る。人間と、身代と、達者とが三代続いたら神の気感に適うた氏子じゃと。
まぁ私共があのう気感に適うたということでもなかろうけれども、まだまだ人間も作っていかなきゃなりませんし、いうなら身代も作ってゆかなばなりませんし、けれども三代続いたということだけはこりゃ確かな事なのですから、その事を思わせてもろうて、今日御理解を頂きましたらこの八十四節を頂くのです。そこで私はそのう思うんですけれどもね、私の知ってる限りでもやはり三代もまたは四代も、信心が続いておられる所を知っております。ですが確かにですねこのう信心辛抱とという事がありますが。
そういう様に確かにそのう自分の頂いておる信心は、まぁ良い信心はともかくと致しまして、金光様を頂き頂いて三代続いたらですね、確かにあのう本当におかげを受けるようですね。もうやはりあのう本当のしのおかげを受けるようですね。ところがねそのう子供に信心が伝わってない所がある。孫に信心が伝わってない所がある。もう信心は影もないようになっている所がある。こりゃどうでもひとつですね、いわゆる信心の受け渡しという事が言われますね。信心のいわゆる後継者。
本当に子供が信心になってくれる事を、本当に親の願いにしなければならんし、それがまた孫に伝わって行く事を、もうお縋りせにゃならんと思います。そこで私は今日はそのう思わせて頂いたんですけれども、細う長う続かねば繁盛ではないということは、長う続けばですね確かにそのうおかげを頂くということですね。けどその繁盛というのは、細い道でも次第に踏み広げて通るのが繁盛じゃと仰ってるんですからね、その続いておってもなんとはなしにおかげを受けておる。
受けとるけれども繁盛はしとらんというのですね、やはりあのう次第に踏み広げて通る事をしてないからだと思う。これは私のもう知っとる限りのご信者さん方で、三代も四代も続いている方達の事をじっと思うてみたんですね、やっぱりなんとはなしにおかげを受けておるですね。私もならやっぱしこうしておかげを頂いて、続いて今日このようなおかげを頂いておるんですけれども、まぁいうなら親子、孫、揃うてですよね、健康で例えば御本部参拝でも出来るようなおかげを受けるということは。
もうこれは大変なおかげだと思うんです。私は今朝からのお夢の事じゃないですけれども。それで私の場合はですね、ここんところを細うても次第に踏み広げて来ておると思うんです。親の代より子の代というふうに、私は踏み広げて来ておる。そこでまたなら父達夫婦からいうなら孫、なら若先生達がまた踏み広げていってさえくれれば、いよいよ繁盛の一途を辿るだろうとこう思うんですよ。そんならね踏み広げるということはどういうことであろうか、細うてもね細々ながらでも三代続いておればです。
こりゃもう本当におかげを受けておりますよ。なんとはなしにおかげを受けておりますよ。例えば私共の隣、椛目の隣の田中の家なんかやっぱり、あのう本当にですねなんとはなしに、あぁいう中にあっておかげを受けておるということですよね。けれどもこれはお世辞にもいうなら繁盛ということにゃ繋がっていないと思う。そんならそれを対照的にしちゃいかんけれども、ならどこに私と田中の信心の違いがあったかということなんですよ。確かにこう三代細々ながら続いておるということはね。
おかげを受けるということはもう事実です。けども何その為にもどうしても信心がですね、家族勢を揃えた信心になってね、子供にしっかり信心の受け渡しが出来なければならぬ。孫にそれが伝わっていかねばならん。今日私は皆さんにそこのところをひとつ、本当に子供や孫に伝えていくという言の信心を、願いとするということと同時に、それでなんとはなしにおかげは受けれるけれども、繁盛に繋がるおかげを頂くためにですね、なら私が辿らせて頂いた信心をやはり見て頂きたいと思うのです。
どこが唯続いただけではなくて、違うておったかということです。どこが踏み広げた事になって来ておったかということです。これはね私がもう絶対これは、おかげを受けてきた事はね、その都度都度の、例えば節を大切にして来た事ですよ。例えば昨日、午前中私奉仕させて頂いておる時に、小群の久富しげるさんがお礼参拝された。今頃から月に二回お休みがあるそうですから、店がお休みの日だけをまぁ参拝日として、お参りさせて頂いておるんです。
そしてもう最近もう思うことは、どうして何年間かでも信心を例えば止めてしもうておったのであろうか、それがもう悔やまれて悔やまれてなりませんちゅうて、もう来るたんべんに申します。もうおかげを頂きまして最近は、こうしてお参りがまぁこうして出来るようにならせて頂いたが、先日からその姪から手紙が参りましたち言われる。姪ちゅうのはあのう小坪さんのこと。小坪ここに熱心にお参りされました小坪ともえさん、久冨正義さんの姉さんに当たります。
そりゃもう熱烈な信心でした。子供達が大変良く出来て、長女が九大をもう最優秀だったそうですね卒業する時。現在高校の先生しとる。それが先月からまぁ親子喧嘩をしたらしいのですよねお母さんと。そしてそのう叔母さんであるところの、しげるさんに手紙をやってるんです。本当に家のお母さんが若い時から、あぁして熱心に信心をさせて頂いておったということで、私達はどのくらい迷惑したか分からないちこう言う。
ある時なんかはノート代が十円いるからと言ったら、あぁ「今日はやめといてくれんの、お賽銭が無いから明日にしてくれんの。」とちゅうてそういう様な事も、そりゃ一回二回じゃなっかたっちゅう。子供心に何も分からなかったけれども、長じてみてこのう実際ほんなこていやですたいね。あぁたなら最高の学校にまで行かせて貰うて、いうなら高校の先生にもなっているんですけん、実をいうたらおかげですけれどもね、その手紙にはそう言う風に書いてある。
それで叔母さん今頃また合楽にお参りしよんなさるそうですが、信心が分からん。家のお母さんの私しゃもう本当に親ばってん、あのうどうにもこうにも出来ないお母さんの我だけにゃもう許されないちゅう、我が強い事に。成る程あの我が言わばひとつの根性、あの根性があったからあの時分に、あのような信心が出来たと思うのですけれども。ある事でスッパと信心を現在では止めておりますが。
本当にあぁいう信心を子供に伝えておれなかった。実際は子供達もそれこそもうたまがるようなおかげを受けているのです。その時代に。勿論おかげを頂いておるからこそ、あれ程しのその当時おかげを受けたんですけれども、それが子供の目にそのよな事に映っておった。それが確かにそのう椛目合楽の通しての信心には、どういう信心が有るかと言うというなら、まぁいうなら素人やら子供にゃ分からないという信心だという事ですよ。いわば常識的じゃないもの、合理的じゃないもの、どこまでも超非常識であり。
今度の新聞に非人情的な信心といった様な、竹内先生が書いておられますようにね、もう人情じゃ人情的じゃないで。人情にあらず、ない,非人情。勿論それはそのう神様へ向かっての信心というしょうけれどもです。確かに超合理的であります。ですからとても子供やら信心の薄い者やら、信心の無い者やらには分かるはずがない。朝の御祈念にお参りして、一時の特別御祈念にまた参って来て、そしてまたお月次祭というとまた晩に参って来る。といったような話をしてもですねピンと来ないのですよ。
昨日も大分のあそこは森と言う、森町のね教会のご信者さんと言う方がお参りして来たのですけれども、もう只々それをそのう見てたまがって、噂と実際はそのう実際来て見ての違いにびっくりして思った訳です。まぁいろいろびっくりする事があったが。あったですね実際もう目の前であったんです。まぁそんな事をそのう大変感動しておりましたですがね。それがならどういう所からそのう生まれて来るかというと、やはりその超合理的といったような信心、合理的をもうひとつ超えておる。
だからなら超が付くようなおかげを、ここでは皆んな頂いておる。まぁ現しておる訳です。ですから小坪トモエさん当たりがです、そんならあぁいう信心をもうひとつ成る程節に行き当たったんですよね。だからその節をもういっちょん大事にして、おかげを受けておったら勿論子供達にも分からせられたであろう。信心も続いただろうと。まぁしげるさんに話させて頂いたんですけれども。本当に確かに子供達が分からんはずじゃんね、合楽の信心はと言うて話した事でございました。
そういう例えば信心がですね、そのうここでは教えられまた皆んながそれを行じておる訳でございます。昨日久富くにかさんがお参りして、お届けをしておられるのに、田植えの間にお参りが出来なかった。いつもあっちは田植えの時じゃろが、取り上げの時じゃろがお参りされるんですよ。今年は田植えん時にお参りが出来なかった。そしたらねもうそれこそ見事にそのう茄子びの成っておる茄子び畑を頂かれたそうです。お夢に。もうちぎってもよいちゅうごたる、そのう茄子びが一杯成っておるのをですね。
有る方が来てからねそれを全部ひっこ抜いてしもうとる。はぁこりゃしもうた又植え直さんならんというところで目が覚めたというお知らせ。例えばねそりゃ農家にとって、取り上げであれ田植えであれという、猫の手も借りたい時でしょうし、また大変もうそれこそ大修行の時でしょうから、とてもへとへとになっておられるとこでございましょうけれども、そこをまぁいっちょ頑張って参れというのが、合楽の信心ですもんね。忙しゅうございますけんで御無礼しますと言った様な信心。
それはどこ迄も合理的なん。それはそうじゃろうそれ所じゃなかろうもん。けれどもそこをまぁいっちょ辛抱し抜き、きつかろうばってそこをもういっちょ、神様に言い訳は充分立とうけれども忙しいという事で。けどもそこを押していくのがいわば超合理的だと言う風に教えられておる訳です。やっぱお夢頂いている様に。折角茄子びという安心と仰る、安心のおかげを頂き続け、もう今まさにちぎっても良いごたる所にまでいっておるのに、惜しいかなある人が来てからそれを引っこ抜いてしもうて。
また新たに植え直さにゃならんという、お知らせを頂いたとこう言うのである。ですからそういうところがです、とてもやはり普通からいうたら同じ金光様の信心頂いとっても、合楽の信心はもう非道だと言うでしょうけれどです、やはりいうならそんなら特別のおかげを頂くためにゃね、人並みの信心じゃいわば人が人偏ならというところなら誰でも通っている。私しゃ行人偏というところを通らせてもらうから、私はおかげを受けられるんだと。またそういう信心しとらなきゃ今日私が言うですね。
節を大事にして行く事は出来んのです。なぜって安心がないもん既に。心に安心が有る神様を信じきっておるからこそ、どのような節に行き当たりましても、それを元気な心で受け抜いていくことが出来るから、次第に踏み広げて通るおかげが、受けられるのでありますね。私というなら三代も四代も続いておる、その例えばご信者さんと言うものを、仮定して比べて見てです、やっぱり二代も三代も信心が細々ながらでも続いておればです、もう三代続いておるなら、もう絶対おかげを受けておるですよやっぱ。
繁盛とはいかんでも、何とはなしにおかげを受けておるです。こりゃ間違いないです。けれども次第に踏み広げて通るのが繁盛じゃと仰るその、その繁盛には繋がっていない。そこでそんならそういう例の方達が沢山ありますね。信心を続けておる人達があります。その人達はです必ず節の時にぐずついておるです。節の時にいわば四駄五駄でそこを通っておるだけです。それを有り難いというものにしていってないです。いうならその節の時に、元気な心を出し切っとらんです。
いうならば信心しよってどうしてこげなこつが起こるじゃろうかと、いうようなところでただ通っておるだけなんです。今日私がならお知らせを頂きますようにです、私共が親、子、孫といわばです信心が三代こう続いて、しかもおかげを頂いてこうやって繁盛のおかげを頂いておるということは、どこに違いがあるか。続いておるということはひとつも変わりはないけれども、私はもう都度都度にです、いうならその節のたんびに、おかげを受けて来た。節のたんびに力を受けて来た。それが違うだけだということ。
そういう例えばなら力を受けるということはです、私は合楽で頂いておりますね、合理的ではありませんでしょうけれども、やはり超合理的な信心を身につけていくという。そして後で考えてみてです、それはたいしたこっちゃないです。そりゃあ普通から見りゃ忙しゅうもある、きつうもあるごたるけれども、もういっちょ頑張っとりゃ誰でも出来くらいな事なんです。そうじゃないですか。朝参って昼参って、夜参るくらい出来んはずはなかです。その気にさえなりゃ。
けれどもそげんまでというところにです、それが出来んのですよ。例えば田植えじゃろがやっぱ取り上げじゃろがです、もうとにかく洋服に着替えてこいと神様が仰らんのじゃもん、ちょっと昼のまぁこぐれちゅうんですか、昼食なら昼食の後でちょっとそんなら自動車を駆って、三十分か一時間の時間をもって、お参りが出来んはずがないですよ。という気でさえありゃ、とりわけ特別のおかげを受けなければならん時にはですね、そこんところをやり抜かなければ駄目です。
はぁもう「昨日はとてもきつうして疲れとりましたけん」「はぁそうじゃったの」決して神様はそげんきつかにねぇごとやって来んかと仰りゃせん。はぁもう「昨日は取上でこうででがざいました」「ご苦労様お疲れさんでしょう」としか言わっしゃりゃせん。だからこりゃどこ迄も自分のもの。そういう信心をなされて初めてです、私共が節に行き当たった時に、その節を見事に受けて行く事が出来る。これはもう私自信が通って来た道なんですから。いわばその超合理的という信心はね。
その時やっぱり信心のあるものでも、そげんまではそげんせんでんというのあったとです。だからそういう話をすると、はぁそれだけでもいわば合楽の信心の真似は出来んと、他の人達は申しますけれどもです、だからこそ真似のでけんおかげを受けさせて頂けるんだと。今日御理解八十四節からですね、驕りがましい事さえせずに細々ながらでも、とにかく親、子、孫と三代続く様な信心ということだけでも、ある意味では大変な事だと。どんなに熱烈な信心しとっても、もう自分だけでお終いになっておったり。
子供達がむしろそれに抵抗したり反感を持ったりして、信心を受け継ごうとしなかったり、これではねけれども私はなんとはなしに、おかげを受けておるおかげすらも受けられないと思う。いわゆる信心の有る者、無い者も同じような結果になってしまう。信心がありゃある程なんとはなしにおかげを受けておる。それはそれなりにおかげを受けておる。それを私は椛目の田中の例を取った訳です。なら私の方もやはりなんとはなしにおかげを受けておるというだけではなくて。
こうここで言うならば踏み広げて繁盛の一途を辿ったおかげを、私は受けて来ておる。どこに違いがあったかと。それは私の信心はどこ迄も、超合理的な信心であったということ。だからその都度都度の節をですね、まぁ見事に迄はいかんでも、そこを元気な心で受けきってきたということ。だからその都度都度に力を受けて来たという事。その都度踏み広げておかげで通る事が出来たということ。だからこれをまた子供達がです、私の信心を受け継いで、これからも次々と起こって来るであろうこれは絶対のもの。
信心しとるから雨も降らん、風も吹かんということは決してないのですから。その雨やら風やらにくじけずにそういう節をです、元気な心で受け抜いてさえいきゃ、繁盛のいわば一途をたどる。踏み広げて通るというのはそういうこと。そういう難儀なところを踏み広げて、踏み越えていわば通らせて頂くということがです、ここに言うておられる繁盛に繋がる。踏み広げて通るのは繁盛じゃ、道に草を生やすような事をすなと。いわゆるこれは普段の精進ということでしょうね。
道に草を生やすような事をすなとは、普段の精進が大事ぞ肝心ぞと、教えておられるとこう思うですね。今朝私が頂く親、子、孫。しかも三夫婦揃うてね、御本部か親教会か分からなかったけれどもお夢の中では、確かにお礼参拝を沢山のお供え物を整えて、お礼参拝をしておるというお知らせを頂いてです、そして今朝この八十四節を頂くのです。そこで私はほかに別の御教えにありますように、人間と身代と達者が頂けて、しかもそれが三代続いたら、神の気感に適のうた氏子じゃと仰るが。
私共もいよいよそんなら人間が出来ておると言う訳でもないですから、いよいよ人間を作らせて頂いてです、神様が仰る様な神の気感に適うた氏子としての精進を惜しんではならない。同時に今日この八十四節を頂くのでございますからね、踏み広げて通る信心。それがただ細々と続いておるというだけでも、おかげは受けておるけれども、踏み広げて通る信心繁盛につながる信心。それには私共が例えばこれから信心生活。
信心を進めていく上にもです。必ず起こって来るであろう雨やら風やらば、例えばその節をですいよいよ大事に、いよいよ元気な心でそこを受け抜かせて頂く、信心のいわばゆるがないですね、信心の力を受けておく為にはです、私共はやはり超のつくような信心、超合理的な信心をさせて頂くような気持ち。そして超合理的というけれども、実際は本当いうたらその気でおれば、誰でも出来るということ。その気が出来るんです。それをただ口実に忙しゅうございましたから。
昨日は疲れておりましたからと言うて、ただ済むだけならただなんとはなしのおかげに過ぎません。だから踏み広げて通る繁盛に繋がるおかげというのは、やはりそのくらいな信心がいる。同時にそういう信心。最後にね道に草を生やすような事をすな。草というのは、もうちょっと油断すりゃ生える。だから油断なくその道に草を生やすような事のない信心をさせてもろうてです、いよいよ信心の力信心の徳を受けてです、いよいよ末広がりのおかげを頂かねばならんと思うですね。
どうぞ。